おばあちゃんが永眠しました。
そのことがあって、少々、ネットから離れていました。
なんというか、そうだなー、なんていったらいいのかな。
感謝しかなかったです。
悲しいとか、日本に戻らなかった後悔とか、ショックとか、
そういうのはなくて
心から、ありがとうと思いました。
実は、おばあちゃんがかなり危険だと、
亡くなる一週間前に姉から連絡があり
マンジロウに日本に帰るよう言われました。
もし帰ったら、
おいらは、おばあちゃんの死を待つんじゃないかと、想像しました。
一日でも長く、と願うのは、おいらにはナイ選択肢で。
早く楽になってほしいと思うのは、おいらっぽいんですが、
「いつドイツに戻れるかな」と、ほんの一瞬でも思ってしまったら
おいらは一生、その事実に苦しむだろうと、思いました。
結局のところ、度胸がなかったわけです。
どんなに危なくなっても、おばあちゃんは一年以上生きそうな気がしたし
最後のお別れは、年末年始で、したつもりではあったし、
というかむしろ、元気なばあちゃんしか見てないことが
とても幸運だとも思ったし。
不思議なくらい、最後に逢えなくてごめん、とは思いませんでした。
ただもう、ありがとうって。
おいらのこと、大事にしてくれて、ありがとうって。
ずっとずっと、ずーっといてくれてありがとうって。
おいらは親からも愛されていたと思うけど、
おいらの親ってちょっと変で、
なかなか、愛情を疑わずにはいられない人たちなので、
一点の曇りもないおばあちゃんの、
掛け値なしの愛情は、きっとおいらの人格形成において
救いだったわけです。
やっぱりおいらがいないと、本は止まってました。
マンジロウの入院まではこまめにチェックしてたんだけど
もうすっかり終わって印刷に流れてるだろうと思い、
手を抜いた途端止まってたという。
本当にやる気のない編集だったな…。
止まったら連絡しろっていっておいたのに。
おばあちゃんは、装丁に悩んだり、
文字の級数や組みをいくつも見たり、
ノンブルを選んだり、
そういうことをしたかったんだと思う。
おいらはそれが一緒にできたから
本にならなくても、後悔はない。
弔電を打ったけれど、
結局式に間に合わず、
それに気づいた弟が連絡をくれ、
15分で書いた手紙を、式で読み上げてくれました。
「読んでる方も聞いてる方も、すごく泣いてたよ」
と、超他人事のメールをマンジロウ母がくれました。
もう少し生きて欲しかったと、やはり思うけれど
苦しみが少なく
ほぼ最後まで自分でおトイレにいき
意識もあっての最期なので、
これ以上のことはなかったと思います。
できるなら、おいらも同じように逝きたい。
最後に、届かなかった弔電をここに記したいと思います。
おばあちゃんにもらったDNAも、
思い出も
教訓も
なにひとつなくさずに
生きていきます。
おばあちゃん、
本当に、本当にありがとう。
ばあちゃんのDNAは、あいざぁが一番継いでるよ、と身内で盛り上がったとか。