夜中に鶏がらを煮込んだ。
シンクを消毒して水を溜め、きれいにきれいに鶏がらを洗い
油や皮をとり、
鍋に入れて、低い温度で一度煮る。
血がこれで流れ出るので、
もう一度洗い、
今度は3-4時間ことこと煮込む。
試行錯誤の結果、このやり方にたどり着いた。
出来上がるスープは驚く程少ない。
けれど美味しい。
鶏がらを煮込み、丁寧にアクと油をすくい取っていると
これは祈りのようだ、と思った。
ただ無心に、
鍋に浮かぶ油の玉をすくい続け、
これは信仰なんだな、と思った。
一部の日本人にとって
食事は、あるいは料理は信仰なのだと思う。
体にいいと信じていること、
食事を通じて得られる家族の団欒、
体を通して心へつながるという確信。
ヨーロッパに暮らしてみて
日本人の食に対する考え方が特殊であることに気づいた。
ドイツ人が食をどう捉えているかという話がしたいのではない。
ドイツにせよフランスにせよ、
食事とは、食べるものであると同時に
コミュニケーションでもある。
誰と食べるか、どこで食べるか。
もちろん日本でも、食事は一人より大勢の方が楽しく美味しい。
けれどどこかで、
そういった状況が入り込めない、
決定的な何かが、例えば我々の思う「正しさ」が、存在する。
つまるところ、「いただきます」へたどり着くのだ。
おいらは無宗教だけれど
これが信仰だと思えば
それなりに敬虔な信者だと言える。
信仰とは、神様を敬うだけではない筈だ。
食事は神事だと聞いたことがあるようなないような。
命をいただく。
できる限り、自分が正しいと信じるやり方で
命を食べようとする、
正しく食べたいと願う。
手を合わせ、いただきますと言葉にする。
その意味を、ちゃんと考えよう。
昨日とったスープで鍋にした。
雑炊にしようと思っていたのに、
気がつくとマンジロウが飲み干していた。
雑炊食べたかった…と思ったが
それだけ美味しかったのだろう、と思い直した。
これは布教活動なのだから
怒ってはいけないのだ。
鰹節削り器を持ってるあたり、信者でしょおいら。
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